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ぼくの生い立ち(前編)

can see the music

Original Update byVictor Bezrukov


西暦1980年代前半、大阪府の南部の田舎町に生を受ける。

両親共働きのため、生後六ヶ月から地元保育園に入園。
小さいながら、園内の人間関係には眼には見えないものの微妙で繊細なヒエラルキーが空気のように存在することをひしひしと感じ取る。

5歳より、親のすすめで近所のピアノ教室に通い始める。

6歳になるもおねしょが全く治らず、ほぼ毎日布団を濡らす日々・・・

  


80年代後半、地元の小学校に入学。
学校がやや遠方のため、通算6年間バス通学を課せられる。

これまた両親共働きのため、放課後は学童保育に6年間通い続ける。

校区内に大型の障害者支援施設があり、小さい頃からそれら特殊な人々と触れ合って育つ。そのせいか、未だに障害者に対するアレルギーはほとんど皆無。

校舎のすぐ横が山際になっており、山の子としてのびのび育つ。今だに、海よりは山の方が得意。

小学3年生頃から頃、学童保育の保護者に和太鼓を習い初め、その楽しさにのめり込み、学校の和太鼓部にも入部。

6年間、毎日登校時に流されるグリーグの「ペールギュント・朝」と下校時に流されるリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」の2曲が心に強く焼き付けられる。

また一輪車にのめり込み、放課後夢中で練習する日々。
「後ろ向き走行」や「階段降り」、高層一輪車も楽々乗りこなす程になり、一躍『一輪車ヒーロー』に。

一方のピアノ教室へはイヤイヤ通う日々が続く。

小学6年ごろ、やっとおねしょが完治、両親も僕も喜ぶ・・・


90年代半ば、自宅から徒歩2分の中学校に進学。
クラス数が一気に三倍になり、その世界の広さに驚愕する。

一部ヤンキーがそこそこ幅を利かせる学校だったが、気にせずやりたいようにやるタイプ。

当初、テニス部に入部申請するも土壇場でそれをキャンセルし、陸上部に入部。当初、幅跳びに明け暮れたが対して成績は伸びず一年で退部。

こんどは科学技術部に入部するも女性顧問のぷっつんキャラに圧倒され、また部員のキャラに馴染めず半年程で退部。

2年時、体験授業という期間限定カリキュラムでギター教室を選択。母親のお古を引っ張り出して練習に明け暮れる。

3年時に短期間、意識的に不登校を試みる。
引きこもり型の不登校でなく、行きたいたい時に行きたい場所へ自転車で自由に放浪するというスタイルを採用。

その理由は今だに自分でもよく分からない。

仲のいい同級生がメロコア・パンクを聴き始め、その煽りを受けてエレキギター(エピフォン・レスポールモデル)を購入。Hi-Standardのコピーバンドにのめり込む。バンドではギターとヴォーカルを担当。

 

90年代後半、隣県の私立進学系高等学校に入学。
はたまた自転車→電車→乗換え→バス通学という過酷な通学路を3年間体験する。

英語教育中心の学科で3年間英語漬けの日々を送る。
この頃から、何気なく将来なりたいと思っていた職業は中学校の英語教師。

帰宅部に入部し、地元友人たちとのバンド活動と作曲活動に明け暮れる。

学年が上がるにつれて受験対策一辺倒の英語教育に嫌気がさし、三年時には完全にその授業スタイルに辟易。

その頃から確信犯的に遅刻・欠席を繰り返し無意識に自分の立ち位置を探し求める。

卒業後の進路を検討中、何気なく手にした地元芸大のパンフレットに目が止まり、当初想定していた外国語大学進学を急遽変更。


00年代前半、無事大阪芸術大学に入学。

隣町にあった大学は自転車で行ける距離。
中学校以来、はたまた近場の学校に通うこととなる。

大学では芸術計画学科に所属。

主にイベントプランニングや既存の芸術分野と社会とをどのように組み合わせ繋いでいくか、という思索に迷走する日々がスタートする。

(つづく)